〔第1回〕~キリマンジャロ登頂~<タンザニア>

“Think globally, act locally(地球規模で考え、足元から行動する).”
これは、80以上の国々への訪問歴・居住歴のある学院長・中川が、その思い出をランダムに記すシリーズコーナーです(この趣旨等については2020年9月20日に掲載のお知らせ「学院長コーナーが始まります♪」をご参照ください)。
お気軽にお読みいただければ幸いです♪

31年前の今日、アフリカ大陸は私の下にあった。

私は山が好きだ。登山家でもなければ、本格的に登山のトレーニングを積んだわけでもない素人だが、数千メートル級の高山であれ、百メートルあるかないかの低山であれ、山ならではの清浄な空気を吸いながら登り、辿り着いた山頂から景色を眺める瞬間は、いつも至福のひと時である。まあ、『バカと煙は・・・』という言葉があるが、それに近いのかも知れない(笑)。

そんな私が登頂した最も標高の高い山は、アフリカはタンザニサ北部に聳えるキリマンジャロ(5895m)。現地の言葉で「白く輝く山」或いは「神々の家」を意味するというこのアフリカ大陸最高峰の山頂を目指した5日間(登り始めから下山まで)は、私にとって最も忘れられない登山の1つである。今回はその思い出を少々。


3泊目を4千7百メートル付近で過ごした4日目の未明。いよいよ頂上に向かってアタック開始の時が来た。

しかし、前夜からの頭痛が猛烈に激化していた。やはり来ましたよ~、高山病・・・。かつて私はチベットで、4千5百メートル付近で高山病に見舞われて半死半生の一夜を過ごした経験があるが、今回は、ここから更に千メートル以上を登らなければならない。
キリマンジャロは、標高のわりには、高度な登山技術は必要ない。言うなれば富士登山のより高い版。しかし、この高さが半端ない。加えて、ポーター(荷運び人)を雇う費用を節約し、食糧その他を全て自分で背負ってここまで登ってきた疲労も蓄積している。幸い、頂上アタックに必要な装備と飲食物以外の荷物はこのキャンプに置いておき、下山時にピックアップすればよいため身は軽い、が、とにかく頭が重い、そして痛い・・・。8名で組んだパーティー(登山時の一行、つまり登山チーム)のうち、既に前日時点で1名が脱落し、この朝、更に3名が登頂を断念することになったため、アタックは私を含む4名。その構成は、オーストラリア人2名(因みにこのうち1名とは2年後に日本で再会することになる)とイタリア人1名、そして関西人1名(私(笑))。

出発に際し、チーフガイドのピーター(タンザニア人)がキリスト教神父的役割を担い、我々4名を並ばせ、「神の御加護あらんことを」的な祈りを唱える。有難い心遣いに、心中で「俺クリスチャンちゃうし、んなことより寒いから早く行こうぜ」と思いつつ、ここは神妙に首を垂れて御祈祷を賜る。医師をしている先輩から「高山病には水分と糖分の摂取が有効」と聞いていたので、この日のために重さに耐えながら麓から携行してきたスポドリ1リットルをナップサックに入れ、いざ出発。

キツイ!とにかくキツイ! 月明かりの中に聳え立つキリマンジャロの巨大な山塊は、前日までより傾斜が増し、しかも火山であるキリマンジャロの頂上下部はガレ場(砂や石の欠片だらけ)で足が埋まり、なかなか踏ん張りが効かない。我々は安全確保のために互いをザイル(ロープ)で繋いでいるが、薄い酸素を必死で取り込もうと喘ぎながら唯々足を踏み出す姿は、さながら刑場へ引き出される囚人ご一行様。休憩したら、それはそれで身体が冷えてくるので、長時間は止まっていられない(因みに携行したスポドリは、リュックの中で揺すられ続けながらも、いつの間にか固~く凍りつき、飲めなくなってしまった・・・。皆さん、氷点下の高山に登る際、飲み物は保冷バックならぬ保温バックに包むか、断熱機能のある水筒に入れた方がいいですよ~)。

しかし、空が白み始める頃、ようやく頂上が見えてきた。
最後の休憩を終え、残る力を振り絞り、遂に登頂!
山頂から眺めるアフリカの大地は、朝日を浴びて輝くように美しかった。

だが、実は、我々が到着した場所(ギルマンズポイント。以下、ギルマンズ)は最高地点ではない。

キリマンジャロの山頂は巨大なクレーター(噴火口)で、ウフルピーク(以下、ウフル)と呼ばれる最高地点はギルマンズのほぼ反対側。ギルマンズ登頂だけでも、それを以てキリマンジャロ登頂証はもらえるが(ギルマンズまで登頂と記されるが)、ここまで来たら真の山頂に立ちたい!

ピーターが4名に意志を確認する。1名は体力の限界とのことでギルマンズから下降することになった。残る3名は、互いを繋いでいたザイルを解き、各自のペースでウフルを目指すことになった。結構なアップダウンが連続する噴火口の縁すなわち円周上を進んでいくため、なかなかウフルは近くならない。また、真夏の赤道直下ながら山頂付近は氷河に覆われ、雪渓の上を進まなければならない箇所も多い。とうとう頭痛と疲労で動けなくなった私を見かねたピーターが、「もうここらで断念した方がよい」と言ってきたが、心の中で「西郷隆盛は西南戦争の最後に『もう、ここらでよか』と言って人生の幕を引いたと聞くが、自分はまだ西郷さんのような心境に達していない」などと我ながら訳のわからない理屈で自分を鼓舞したのを覚えている。ともかく、「ここらでよくはなか」と心中呟きながら、数歩進んでは休み、また数歩進んでは休みを繰り返すうちに、いよいよウフルが近づいてきた。先に登頂した2人が自分に向かって手を振っている姿が見える。そして、彼らに抱きかかえられるようにして、遂に真の頂に立った

時に1989年9月20日午前6時45分、アフリカ大陸は私の下にあった。

以上、おっさんの昔話に最後までお付き合いいただき有難うございました。
もしよかったら次回もお付き合いください。

2020年9月20日 中川 智幸