〔第2回〕 ~初めての海外~ <中国>

“Think globally, act locally(地球規模で考え、足元から行動する).”
これは、80以上の国々への訪問歴・居住歴のある学院長・中川が、その思い出をランダムに記すシリーズコーナーです。お気軽にお読みいただければ幸いです♪

私の海外話を徒然なるままに語るこのコーナーは9月20日に始まりました。その記念すべき(?)第1回目にキリマンジャロ登山の話を掲載したのは、31年前のその日が、私がキリマンジャロの頂5895mに立った日だからであるということはその稿で述べたとおり。では、キリマンジャロも含め、そもそもなぜ私が20代前半に旅に旅を重ねる日々を送ることになり、五大陸80ヵ国以上の地を踏むに至ったのか。今後このコーナーを連載(という程のものじゃないが(笑))していくにあたり、この第2回目で、その点について触れておきたい。

動機は幾つかあるが、振り返ってみれば、私が初めて訪れた外国、中国での2人の人物との出会いが、その後私を旅に駆らせた最大のきっかけであったように思う。予め断っておくが、読み手にとっては取り立てて面白い話ではないかも知れない。しかし私にとっては、非常に大きな影響をもたらされた出会いであり、彼らと語らった33年前の夏の夜は、『百聞は一見にしかず』という言葉を実感した忘れ難い一夜である。

北京市街をあちこち巡り歩いた夕暮れ時、そろそろ宿所の安ホテル(大部屋で1泊200円以下。当時の中国は日本人からすると諸物価激安で助かった~♩)に戻ろうとしたところ、文字通り袋小路のような場所に入り込み、道に迷ってしまった(好んで裏路地っぽい道を歩いていたせいもあるが(笑))。ま、いざとなればタクシーに乗れば着けるには決まっているが、懐寂しい私としては極力その手は使いたくなかったため、街頭の縁台で寛いでいる人たちに片言の中国語と筆談で道を尋ねた。みな親切で、何人もが寄り集まり、親身になってあれこれ話してくれるのだが(中には明らかに「タクシーに乗れ」との勧めもあった(笑))、私の中国語の拙さのせいもあり、どうにも要領を得ない。暫くの後、偶然通りがかったのか、或いは誰かが連れてきてくれたのか、英語を話せる1人の青年が現れた。

彼曰く、「そう遠くはないが、分かりにくい場所なので、自分が自転車で連れて行ってやる。後ろに乗れ」。

彼の小気味良い運転と夜風に身を任せながら北京の街を走ること十数分。無事帰着したホテルで、せめてものお礼にと買い求めたジュースを一緒に飲みながら、屋外のベンチで暫し彼と語らった。聞けば彼は私と同じ二十歳の学生で、工学系の勉強をしているとのこと。若者同士の常で、お互いの将来への想いなども語り合ったが、就職について彼がつぶやいた言葉に、私は覚えず衝撃を受けた。

「最終的に就職先は国家が決めることだから」。

日本と中国に限らず、国家間に様々な体制的相違があるということは、頭では即ち知識としては分かっていたが、図らずもその現実を体感した私の心はさざ波だった。

『生まれる国が違うと、こんなに人生が違っていくんだ・・・』。

その夜、同宿のO氏(日本人。私より8歳ほど年長だったと記憶している)とビールを飲んだ。彼は8年以上世界を放浪しているとのことで、その話は実に面白く、偶々同じ宿に泊まりあわせた同国人という親しみもあって、北京滞在中はほぼ毎晩彼に様々な国の話を聞かせてもらい、大いに啓発を受けていた。そんなO氏に先刻の件を語ったところ、彼は「お前、それはホントいい経験したね。若いうちにう~んと旅して、う~んと何かを感じな。日本での日常じゃ見られないものを自分の目で見て、自分の心で感じるんだ。それがいつの日か必ず生きてくる」。また、彼はこうも言った。「出来るだけ若いうちにインドへ行け。なぜなら・・・」。

以下は割愛するが、彼のその言葉が、予定になかったインド行きを私に決意させた。人間、同時に2つの選択ができない以上、選んだ道が良かったかどうかは永遠に分からないが、後、『あの時、O氏の勧めに従ってインドへ行ってよかった』と思うことになった。その辺りの事情についてはまたの機会に譲ることにし、最後に、時間遡って日本を発つ直前の私の心境等を少々。

初めて海外へ旅立つ前の私の心中は複雑だった。海外どころか飛行機すら初めての私が、いわゆるパックツアーではなく、大阪-香港間のオープンチケットと幾ばくかの金だけを携えての一人旅。しかも、行先には決して治安や衛生が良いとされていない国も含まれている(因みに、この旅の目的はシルクロードを辿ることにあったので、中国から陸路でパキスタン、イラン、トルコ、東欧を経て、イタリアのローマへ到達する計画だった)。

この旅の為に懸命にお金を貯め、いよいよそれが実現する日が迫るにつれ、喜びに胸が高鳴るかと思いきや、逆に日ごと不安が増大し、恥ずかしながら、航空会社の事情か何かで出国できなくなればむしろホッとするかも・・・とさえ思う時もあった。たかが海外旅行で大袈裟だし、今にして思えば笑い話だが、当時の私にとっては大きな冒険であり、相当な“思い切り”が必要だった。だが、結果的に、“思い切って”日本を飛び出してよかった。お蔭で、自分の無知さや未熟さに気づかされ、若いうちに、もっと多くの異文化に触れ、少しでも多くの事物を見聞きしようと思うに至った。

ともかく、リュック背負って世界のあちこちを放浪した私の20代前半の日々は、北京での2人の人物との出会いから始まったように思う。異国での、特に発展途上国での一人旅は、予期せぬ出来事に遭遇する機会が少なくなく、試され、鍛えられ、己について考えさせられることも多くあった。時には命の危険を感じる場面もあった。だが、それも含めて、かけがえのない学びを得たように思う。そのきっかけをもたらしてくれた2人の人物に感謝。そして、そんな2人に出会わせてくれた“旅”というものに感謝。

以上、今回もおっさんの昔話に最後までお付き合いいただき有難うございました。私が世界のあちこちで経験したことを記すことで何かを感じてくれる人がいるのであれば、望外の喜びですので、もしよろしければ次回もお付き合いください。

2020年10月16日 中川 智幸