〔第5回〕 ~教育への想い、熱くした日~ <イエメン>

“Think Globally, act locally(地球規模で考え、足元から行動する).”

これは、80以上の国々への訪問歴・居住歴のある学院長・中川が、その思い出をランダムに記すシリーズコーナーです。お気軽にお読みいただければ幸いです♪

皆さんはイエメンという国をご存知でしょうか?

アラビア半島の南西部に位置する人口2千万程の国。あまり聞きなれない国名でしょうし、聞いたことはあるという人も、恐らく、きな臭いイメージを持たれているのではないかと思います。実際、試しにGoogleで「イエメン」を検索すると、トップ画面に上がってくる記事の大半は「内戦」「人道危機」等、デンジャラスな内容のオンパレード。

因みに「日本」の同トップ画面には、その類の記事は見当たらない。

ついでに、前回の当コーナーで取り上げた「トンガ王国」を検索すると、トロピカルでパラダイスな記事ばかり♪ おや、1つだけヤバイ記事がありました。

国民の5人に4人は肥満体・トンガ

南太平洋に浮かぶ、エメラルドブルーの海に囲まれた島国、トンガ王国。約170もの島々から成るこの国は、太っている人が多いことでも有名です。どのくらい太っている人が多いかというと、国際共同研究「GBD研究2013」のデータによると、男女ともに肥満率は世界で第一位。約8割以上の人が肥満であると報告されています。トンガとは、いったいどのような国なのでしょうか。

この記事の続きは下記を参照いただければと思うが、確かにこれはデンジャラス(苦笑)!https://www.jica.go.jp/nantokashinakya/sekatopix/article0110/index.html

冗談はさておき、今年最初の当コーナーで記すのはイエメンでの話。

30年近く「イエメン・アラブ共和国(北イエメン)」と「イエメン人民民主共和国(南イエメン)」に分かれていた両イエメンが合併し、「イエメン共和国」が成立したのが1990年の5月。私が訪れたのはその4ヶ月後だったので、統一の祝賀ムードに満ち満ちているのかと思いきや、そんな浮かれた雰囲気は全くなく、1週間の滞在中に出会った外国人旅行者もアルゼンチン人1名のみ。

それもそのはず。

イエメンは、ただでさえ観光地としてはマイナーな上に、同年8月に湾岸危機(イラクによるクウェート侵攻)が勃発し、中東全体がただならぬ緊張状態にあったのだ。

この旅では、オーストリアを起点に、東欧(この内、ルーマニアでの話は前々回の当コーナーで一部触れた)そして中東諸国を巡り、エジプトから帰国の途に就く予定だった。その中にはイラクも含んでいたのだが、当然その予定は変更を余儀なくされた。

ネットなどなかった時代、東欧滞在中にTVでこの湾岸危機勃発を知ったのだが、ハンガリー語やブルガリア語で内容もよく分からなかったため、取り敢えずトルコのイスタンブール到着後、ダメもとでイラク領事館へ出向き、入国ビザ申請及び状況把握をしようとした。

そこでのやり取りは以下のとおり。

〔中川〕「ビザを申請したいんですが・・・」

〔館員〕「No !」

〔中川〕「どうして?」

〔館員〕「War !」

状況よ~~~く分かりました・・・。

この湾岸危機、続いて起こった湾岸戦争は、その後の私の人生に少なからぬ影響を及ぼしたのだが、それはさておき、イラク入国が不可になったことで浮いた日数を、ヨルダンの首都アンマンでふらっと入った旅行代理店のオヤジに薦められたイエメンに充てることにした。

そんな経緯で、図らずも訪れたイエメンだが、これが予想を遥かに超える素晴らしい国だったのです。

先ず、首都サヌアの空港に着いていきなり珍奇な光景が!

空港の係官にせよ銀行マンにせよ売店の店員にせよ、全て男たちが三日月形の刀を腰前に帯びている。

この短刀の名は“ジャンビア”。

これを帯刀するのは、成人男性の証であり誇りだそうで、刀もベルトもメッチャ格好イイ!

因みに、ジャンビアは紛れもなく殺傷用の武器なのだが、軽々に抜刀するのは人間として底の浅さを露呈することであり、これを抜くことなく、即ち相手を傷つけることなく決着をつけるのがイエメンの理想の戦士像だとされているとのこと。私が中学・高校時代にやっていた日本の剣道の世界にも、相手を殺めることなく負けを悟らせるのが最上の勝ち方だとの考え方があり、イエメンと日本の武士道の通底を感じた私は、イエメンへの親しみがグッと増した。

そんなこんなで、ジャンビアに惹かれた私は、サヌア滞在中に何軒もの販売店や工房を見て回った。

デザインは千差万別で、値段もピンキリ。あまり旅先で土産物は買わない私だが、手が届く価格のジャンビア(刀身がスチールだかアルミだかで作られた薄っぺら~い、まあ模擬刀)を1本買い求めた。

そんなジャンビア巡りも含め、サヌアは、街そのものが世界文化遺産として登録されているだけあって、実に素晴らしい! 少なくとも自分の知る中東のどの街とも違った家並が続く佇まいは、その歴史が醸し出す雰囲気が漂い、且つ、言い知れぬ気品に満ちている。

これまで中東の多くの街を訪れてきたが、“街並み”という点では、この2300mの高原に広がるサヌアが最も魅力的だった(因みに次点はオマーンのマスカット、3位はイスラエルのエルサレム)。

その他にも、映画や音楽にも登場する「シバの女王」に縁あるとされるマーリブ遺跡等々、イエメンは僅か1週間の滞在では味わいきれないほど魅力的な国だったが、この調子だと、今回のお題である「教育への想い、熱くした」出来事にいつまで経っても辿り着かないため(苦笑)、大好きなイエメン紹介はここらで泣く泣くストップし、本題に。

その場所はシャハラ山。

首都サヌアから車で3時間程北に聳え立つ3千余mのこの山は、頂上近くが双峰になっており、高い方の峰の頂上に在る村が山名と同じシャハラ、それより若干低い峰の頂に立地する村がオムレラ。かつて中近東を席巻したオスマントルコ軍が唯一陥とすことが出来なかったといわれるこの両村を私が目指した目的は、シャハラ村とオムレラ村を結ぶために標高3千m付近の断崖と断崖の間に17世紀に架けられた石の橋を見学し、渡ること。先に言うと、このストーンブリッジは、これまで私が外国で見た中で最も感動した建造物だった。

因みに日本国内で私が最も感銘を受けた建造物は、鳥取県の三仏寺投入堂。

何れも、よくぞこんな急峻な場所にこれだけの物を建造したものだな・・・という、唯々、人間の持つ力への驚きあるのみ!

話戻して、その日、朝一でサヌアを出発。昼前にシャハラ山麓に到着し、その足で頂上のシャハラ村を目指して登山開始。

山頂までに幾つかの集落を通過していくが、皆ものすごく親切かつ親日的。というのも、水を得るためには、かつては、山から遠く離れた水源から汲んだ水を容器に入れて運び上げるか、雨水を貯めるかしかなかったシャハラ山の村々に、日本の政府等(前回の当コーナーで紹介した国際協力事業団(JICA)等)の援助で数年前に水道が敷設されたとのことで、私が日本人だと分かると、「日本のお陰で水に困らなくなった。有難う! まあ座ってお茶飲んでけ! メシ食ってけ!」ってな歓待を受けた。

私自身が何かした訳ではないだけに少々どぎまぎしたが、日本人として嬉しい気持ちになれたのも事実だった。

そして途中、同じくシャハラ村を目指すエジプト人の3人組に出会った。

彼らは、シャハラやオムレラの子どもたちに教育を提供するためにエジプトから1年間の任期で派遣された教員だった。行先は同じだし、旅は道連れで、何となく私は彼らと行動を共にすることになった。

3人の内2人は結構な肥満体で、特に1名はヘビー級の巨漢。滝のように汗を掻きかき、ヒーヒー言いながら、それでも懸命に登っていく。

険しい場所では、時に私がヘビー級のオッサンのお尻を押したり手を引っ張ったりする場面も。

いつしか陽も落ち、月明かりを頼りに彼らと共に山道を登るうち、私の胸には言い知れぬ感動が沸き上がってきた。

教育って、すごく大切なものなんだ・・・。

彼らは、教育のために、異国の、しかもこんな僻地の山の頂の村に1年間居住し、働くのだ・・・。

彼らがどんな経緯でここに来たのか、そしてエジプトへ戻った暁にどんなメリットが待っているのかは分からないが、兎にも角にも、こんな肥満体の(失礼!)オッサン達が、教育のために、こんな夜の山道を必死で登っていくのだ・・・。

教育って、すごく尊いものなんだ・・・。

目指す職業の1つに「教員」があった私の中に、教育への熱い想いが込み上げてきたのを今も覚えている。

シャハラで一夜を明かした翌朝、目的のストーンブリッジを渡って向う峰のオムレラへ足を延ばした。

そして、御来光を浴びて輪郭を現していくシャハラを遠望した。

その光景は幻想的というか神秘的というか・・・。

シャハラは、時空を忘れさせるほど凛と、そして静かに、朝焼けの雲海の上に存在していた。

冒頭で述べた様に、イエメンは長きに渡って非常にデンジャラスな情勢にある。その状況が簡単に好転するとは思えないが、私は、忘れられない数々の感動を与え、そして教育への想いを熱くしてくれた人たちと出会わせてくれた彼の国の平和をいつも祈っている。

以上、今回もおっさんの昔話に最後までお付き合いいただき有難うございました。よろしければ次回もお付き合いください。

2021年1月18日 中川 智幸